悔しいけど

忘れられない人がいる。悪い意味で。

 

 

女は感情論という言葉が嫌で、20歳くらいの頃からか、議論に強くなりたいと切実に思って本を読み漁り実際にそう主張する世代や男性と正面きって戦ってきた、ような気がする。

フェミニズムではない。ただ、私自身、女だというだけで議論のスタートにも立てないのが悔しくて、いつも食い込むようにしつこく議論をしていった。嫌われても厄介に思われても、その議論の中で一番の最適解を出していたかった。最適解を出すことでその男性たち(体感、おじさんと呼ばれる人たちが多かった)の、逃げ場を封じたかった。

女は感情論といって、自分たちが一番議論から逃げ出しているひとたちと、逃げ場を塞いでとにかく殴り合っていたように思う。むしろ殴っていたのは私だけかもしれない。

 

だから、いつの間にか男性というものはなんとなく殴る対象、みたいになっていたし、臨戦態勢をとるような、揚げ足いつでもとってやるぞ、といったような、もう、いつお前の首をとってやろうか、なんて気持ちでいるばかりで。

そんな感じで何年もやっていっていくうちに、女性は云々、以前の、女性というものを認識させたくない、したくない、といった、なんだかよくわからない終着点に行きついていた。

こじらせていたわけだ。要は。

 

同時に傷ついてもいた、ような気がする。

本当は羨ましかったのだ、女性でいられる女性が。

私は自分の意地ゆえに女性性というものをとにかくなくしたかった。それが、男性と議論するとか、フェアでいるとか、そういうことには絶対的に必要な手段だったから。もちろん、それは私にとって、だけれど。

 

花のように笑う女性をいつも横目に、私には関係ないと走り続けたら、やっぱり限界はきた。

 

もとから自分には魅力を感じていなかった。女性的魅力のこと。かわいいとか愛嬌とか華やかさとか、そこにいるだけで愛されるような要素。そんなものはない。ないよ、私には。だから私は腹いせのように議論で殴りまくる日々。それでどうにか自分を保っていたように思う。

そして殴り疲れたらどこもかしこもボロボロで。なにもなくなったな、と思った。

 

ちょうど、周りが結婚していく時期だった。

男女がともに幸せに?どういうこと?

今まで殴ってた相手とどう幸せになれっていうの、こんな愛される要素がない私がどう女性的魅力を出せっていうの?という、完全なる混乱に足を取られて、結婚ラッシュを見事に見送った。

 

で、冒頭に戻るのだけれど。

そこにポッとあらわれてしまった見事な遊び人がいた。

女性をお姫様みたいに扱える人だった。

 

一言、私は終わった。

 

そのときは気づいてなかった。何故か知らないけど沼にハマった。こいつ絶対クズじゃん、って思いながら何回も会った。そして何回も泣いた。

簡単に言えば私はいつの間にか隙だらけだったのだ。女性性を消せば消すほど、女性として扱われない悲しさみたいなものを抱え続け、なおかつ、その気持ちが日に日に自分の心に大きい亀裂を生み出し続けてしまった。

で、見事にそこに滑り込んでしまったわけだ。クズが。

 

今でも思い出す。大していい思い出でもないのに、してやられた、という大きな後悔みたいなものがそれを掴んで離さないでいる。

何をされたとか、そういうのが重要でもないんだろうなと思う。あのタイミングで、というのが大きい。

今誰かに同じことをされても笑ってしまうだろうし。

劇薬になってしまったのだ。あまりに今までの傷に即効性があったから、やめられずに服用を続けてしまった感じ。

 

定期的に思い出してしまう。とくに、自分に自信をなくしてしまった、今日みたいな日は。

もうどうこうするつもりはないし、ブロックしたから一生会うこともないけれど。

カテゴライズできない妙な思い出を、ずっと片手に生きていくんだろうなって思う。

 

相変わらず自分に魅力なんてこれっぽっちも感じられない日々だけど。もうクズにはハマらないと、思う。もう議論で殴ってないし。

 

自分に魅力を少しでも感じられたらいいのにね。

自分が嫌いだと、その気持ちをずっと側に抱え続けて生きないといけない。それはわりと、だるい。

いつか一瞬でもその気持ちが軽くなったらいいのだろうけど。

よくわからないね。

 

おばあちゃんが

何故私をこんなにも可愛がったか、と考えたら、おそらく、いつでも私は一番小さかったからだろう。

 

父方の親戚の中で私は一番下だった。おばあちゃんを囲んだ正月、お盆、誕生日、何気ないお墓参りの後。みんなでテーブルを囲んで、お漬物と畑で採れた果物と近所の人の差し入れを、それぞれつまんでいくひととき、いつでも、私は一番小さかった。

 

おばあちゃんからしたら、いつでも私は子犬とか子猫のような存在だったんだと思う。私が顔を出すとニコニコして、顎の下をくすぐったり、ほっぺたを両手で包んでもみくちゃにしたりしていた。それが大学生になっても、働いてからも続いた。いくつになっても、おばあちゃんの孫だもの、一生変わらないことでしょう?と、よくおばあちゃんは言って、ニコニコしていた。

 

そのときの笑顔が忘れられない。純粋な喜びとか、愛情とか、そういうものが全部詰め込まれていた瞬間。そのときは受け止め切れずに、どこかどきまぎして、恥ずかしくて、うまく笑えなかった日々。

今思うと、なんてもったいないことを、と思うけれど、そのときの私はそれが精一杯だった。

 

30を過ぎて思うことがいろいろある。振り返る思い出も増えた。もっとおばあちゃんと話したかったと、きっといつでもそう思う、たくさんの後悔を抱えてこれからも生きるんだろうなって、思う。

 

ねぇ、おばあちゃん。私たくさん抱え切れないことがあって、思い出は記憶からこぼれていくばかりなんだけどね。最近やっと愛情というものがわかってきたときに、やっぱりおばあちゃんがすぐ出てくるんだよ。

玄関を開けて、奥からおばあちゃんが出てきて、私を見つけて笑ってくれた思い出が、まだ、私に生きていていいんだよと言ってくれてるみたいで。

 

私、おばあちゃんのいる天国に行きたいって本当に思ったことがあるの。生きるのが苦しくて、おばあちゃんに会えなくて寂しくて、これからがわからなくて、疲れて、おばあちゃんの前で泣きたくて、子どもでいたくて。

でもね、今はちゃんと生きようって思ってるよ。もうおばあちゃんはいないけど、すごく寂しいけど、周りの人をもう、一人も失いたくないけど、どんなことがあっても死ぬまで生きようって思えるよ。

 

もっと話したかった。生きれば生きるほど話は尽きないね。たくさん言いたいこともあるし、たくさん謝りたいことだってある。こんな私だけどもう少し生きてみるよ。

もしいつか私もおばあちゃんになって、そのうち天国にお邪魔することになったら、また私を見つけて、笑ってくれるかな。そのときはたくさん話がしたいよ。それまでもう少し待っててね。沢山お土産もっていくから。待ってて。

それは中学生の頃、勉強で順位がつくようになりだして、テストの度に胃が痛む思いをした。

 

私の価値はそこにしかないと本気で信じていた。

90点以上じゃないと私の価値はないと、学年一位の女の子にぽつりと漏らした。私は二位か三位だった。女の子は、そんなことないよと本気で言ってくれた。優しい女の子だった。

 

完璧に一位なわけでもないのに、誰に求められているわけでもないのに、本当に点数が私の価値に直結すると信じていた私。苦手な社会で77点をとって、答案用紙がくしゃくしゃになるのも気にせずそのまま机に伏せて力なく絶望した。

心配して寄ってきたクラスメイトに正直に点数を明かせば、その点数で落ち込んでいるという状況にひどく驚かれた。

 

すごい、といわれることが全てだった。

注目されなければ、誰かの視界に入って、記憶に残って、なにかと言えば私、といったような、タグ付けされた状態でないと、世界と繋がっていないような気さえしていたあの頃を、思い出す。

その癖人の視線が怖かった。認識してほしくても、注目はされたくなかった。

 

学年一位の子は順調に進学して医学部にいった。

私は中学にまともにいけなくなった。高校も、入学してすぐ別の高校に編入した。大学受験は落ちた。転職ばかりして、パートで生きている。

みじめだと、たぶんあのときの私は思うだろうな、今はどうか、どんな答えでも、私は胸を張れずにいる。

 

平均50点で生きていいんだ、という。記事を読んでいろいろ思い出した過去。誰かのイタズラ書きのようなぐちゃぐちゃの人生。

 

今はきっと77点でも落ち込まないし、点数と価値との関係は全くなくなった。むしろ、点数がつかない、答えのないことばかりの社会に放り込まれて、日々自己採点を繰り返すけれど、わからなくなる。なにも。突然。

 

疲れて痛む足を放り出してぼんやりと眺める天井が、日々とてもなじみ深い風景になる。

これでいい、と、満点を出さなくてもいい日々を、受け入れられる日が先か、自己採点が甘くなる日が先か、どちらもないか、わからないけれど。

 

頭が回らない。寝よう。

 

 

湧き上がる不安に

酸素の濃度が間に合わなくて、口から大きく息を吸う。

 

暗闇に浮き上がるスマートフォンの画面。いくら叩いても来ない連絡。そもそも、誰からの連絡も、大して待ってもいなくて。

今日もデパスを口に放り込んで、不安を揉み消しては明日をじっ、と待つ。

大して期待しない明日がくる。

薄い一枚の紙の

定型文の合間に挟まれた気遣い。

 

前職の人事部から送られてきた書類の添状。定型文が嵌め込まれているだけだと見送りそうになった文字の羅列が、本当はとても意味があると知った時に、私は担当者の名前を確認した。

担当者は少し口の悪い、良く言えばワイルドな人だった。社員の中で一番早く出社して、いち早く掃除に取り掛かる人だった。

私ともうひとりのパートのおじいちゃんは、残業しないように早く出社していた。最初はそのおじいちゃんだけ。そのあと、私も隣で、揃って仕事をするようになって、2人でそのワイルドな人を迎えるのが朝の恒例になっていた。

その人が取り出した掃除機の音で席を立って、邪魔にならないように私達も掃除に取り掛かる日々。

 

ついに君も早く来る様になったか

そう苦笑いされたのを今でも思い出す。

朝が得意なんです、とそのときは笑っていたけれども。

 

なんとなく考える。

残業代が出ないパートが、日に日に出勤時間を早め、退勤時間が遅くなり、ついに突然姿を消したその一連の流れを、あの人はどういう気持ちで見ていたのだろうか。

 

退職後、諸手続きの電話をしたとき、その人の声は幾分か優しかった。気のせいだと思っていたが、添状に載せられた言葉が、それを少しだけ否定しているようだった。

嘘でも全然いいや、そう思えた。

事実なんて一生わからない。

 

上層部の薄っぺらい、馬鹿でも分かる嘘に辟易としていたのになぁ、と考えてはみたものの、そういった類の嘘とはまた違うものだと思い至って、考えるのをやめた。

嘘にも質があるらしい。どうやら。

 

丁寧にファイルに入れられた添状と書類を机に放り出してそそくさと布団に入る。

退職届を出した日が遠い昔の様に感じる。働いていた日々も。

 

少しずつ効いてきた睡眠薬が、瞼をゆっくりと閉ざしていく。

休養の日々が続く。小さな1日が終わろうとしている。

せめて、今日の私を責めないうちに。おやすみを。

月曜日の

街を歩いたら、

週初めの、鈍く動き始める社会の気だるさを、毛先で絡め取るような、錯覚が起こって、なんとなくゆううつになった。

きっとこれはみんなのゆううつに、なんとなく浸ってみただけなんだと、少し気持ちを遊ばせたのち、ゆううつをひきつれて、なんとなく過ごした。

 

怒涛の転職期間を過ぎて、新しい環境への不安に、先程、瞼をこじ開けられた。薬でぼんやり、眠りへと落ちるこの余った時間に、文字を敷き詰める。

 

怒涛の下半期。4年ぶりの労働、出会い、一人暮らし、転職。毎日、時間が転げ落ちるように過ぎていって、記憶は曖昧になっている。

私の人生、だいたい突然で、速くて、よくわからない。舵なんて取れるか。荒波をスピードで押し切るような、無茶としか言えない方法で、進んでいる。

 

計画通りいかないことがよくわかった。

計画など気休めでしか、ないのだ。もちろん、私にとっては、という話。

それでやっていけるのだ。大丈夫だ、また、これからもやっていける。生きていれば、それでいい。

 

あと10分以内に眠れますように。

 

 

寂しさや

物足りなさを感じながらも、それらをぐっとこらえて眠りに就く夜。

ゆったりとしたジャズを暗闇に溶かして今日を振り返れば、慌ただしく過ぎる毎日に、疲弊しきった体がはっきりとした悲鳴をあげていて。

何か、は、している。とりあえず。

それは英会話だったり、体のメンテナンスだったり。ちょっとひといきついてカフェに行ったり。

ただ、なんとなくなにか足りないような。なにかを取り損ねているそんな感覚が、底の方にこびりついて取れない、そんな気持ち悪さがつきまとう。

 

かき集めた充実というものを、抱えきれずにすべてこぼしてしまわないように。ひとつずつ丁寧に並べて、取り扱わないと。きっとだめになる。

少しずつ重くなる瞼と、なにかを懸命に欲しがり愚図る小さな私に、今日は終わりね、と声をかけて。

物足りなさが明日の活力になればいい。

そうできると信じて眠る。