世界は君を歓迎している

と、とある物語にあった言葉が今でも心に刺さっているのは

そのままの私が歓迎されていたいと思っている証拠で。

それを叶えてくれていた世界というのは

きっと、祖母が丸くなって眠るあの病室だろうと、なんの疑いもなしに思う。

死の気配がいつも漂う、儚くて小さな世界でもあった。それでもそこに祖母がいるだけで、私は、どの世界よりも居心地がよく、どの世界よりも私でいられた。私でいていいのだと思えた。

そんな世界だった。

 

祖母がいなくなった今、なにか後悔があるわけでもない。すがってもいない。

ただ、安らかに過ごしてほしいと思っている。

何故今日そんなことを思うのかといえば

久々に寺に行こうとしているからである。

 

勉強も全て投げ出したかった。

とにかく運転がしたかった。

片道約1時間の道のりの間、この陰鬱とした気分を、安全運転(びびり運転ともいう)で塗りつぶしたかった。

 

久しく、寺の人達と話もしていない。

私が生まれる前からの関わりで

その関係性は信仰心故に、というより親戚(もっと近いが適切な言葉が見つからない)に近い関係性であって。

ゆっくりと話がしたい。そう思っている。

小さい頃から馴染みのある線香の香りに心を休ませながら、とつとつと、なにか会話が紡げればいい。

少し厳しくも、優しく声をかけてくれる、先代の住職の奥さん(寺のドン笑)は、パワフルで芯が通っていて清々しい。

最近顔を見せに行けていない分、わりと認識されていないので、今日どうにか覚えてもらえたらありがたいものである。

 

ついでに神社にもいこう。

意味もなくおみくじをひこう。

結果なんてすぐ忘れて笑って、少しでも前に進めたらいい。

そう願って身支度をする。