怒涛

そう、ひとことで言えば怒涛の日々だった。

 

実は8月中旬に一度失恋をしている。それを皮切りに、8月はものすごい勢いで過ぎていった。正直、失恋の傷など癒えるどころかどこか飛んで行ってしまったのだけど。

それだけ、8月下旬に起こった、祖母の他界は大きなもので。

亡くなったという報告を受けた瞬間、母は準備に走り、父の到着を待ち、私は泣きながら離島の兄に電話をかけた。

祖母は、最後の最後、やっときてくれた祖母の兄弟が帰った瞬間、心拍数が下がり始め

ものの20分で息を引き取ったという。

まるで、親戚全員に会って安心したかのように。

医者も間に合わなかった。その場にいたのは、一番面倒をみていた叔母だけ。

取り乱した叔母が父に電話をかけ、父も電話越しに最期を看取ったという。日本語が怪しいけれど。

 

その日に亡くなることは医者も思っていなかったという。

親戚の皆で話をした。きっと、祖母のことだ、親戚全員にあった瞬間「もう、よか。」と満足して、さっさと逝ってしまったのだろう。と。

死んだ後に迷惑をかけたくないとよく口にしていた祖母。偶然だろうか、父の心配していた、学校の始業式には、ギリギリ、忌引きはかぶらなかった。

 

病院について、祖母と対面して、葬儀屋さんがきて、運び出す瞬間、堰を切ったかのように涙が止まらなかった。おばあちゃん、本当に、死んじゃったの?そんな気持ちしかなかった。

 

そこからはもう記憶が曖昧である。とにかく私はひとりで実家と祖母の家を往復していた。2時間以上かかる移動だった。初めて腰が痛くなった。

泣く暇など、本当になかった。本当に、準備に追われるというのはこういうことか、と思うのみだった。

 

葬儀の最後、父のあいさつで、私たちはやっと泣いた気がする。

私も兄も兄嫁もいとこのお姉ちゃんもお兄ちゃんもみんな泣いた。

そこからずうっとないた。わんわん泣いていた。

出棺までずっと泣いた。出棺して、火葬場に棺が入る瞬間も。

 

そこから葬儀が終われば、また今度は片づけや諸手続きに追われた。

私だけ実家に残ることになったとき、ひとりが不安でたまらなかったけれど。

結局いつだったか、実家にいて、ろくにご飯も食べずに、少し元気になったときに緊張の糸が切れてひとりで泣いた。今度は骨になっちゃったんだって、うそでしょって、泣いた。

 

今朝ぽつぽつと、母といろいろ振り返っていて、静かに日常に戻っていくのを感じていて。

事業所で静かに泣きながらこれを更新してる。

きっとまた泣くんだろうなってわかりきったことを思う。

とりあえずみんなお疲れ様で。おばあちゃんが天国で幸せだったらいいなと思う。

 

いつかあたたかい思い出になればいいな。

天国からおばあちゃんが見てると思うと、ちゃんと生きようと思える。

おばあちゃんみたいになれたらそれでいい。そう思う。